一房の葡萄 [Hitofusa no budo] by Takeo Arishima


一房の葡萄 [Hitofusa no budo]
Title : 一房の葡萄 [Hitofusa no budo]
Author :
Rating :
ISBN : -
Language : Japanese
Format Type : Kindle Edition
Number of Pages : 9
Publication : First published January 1, 1920

明治末〜大正時代に活躍した白樺派の作家、有島武郎の童話。初出は「赤い鳥」[1920(大正9)年]。横浜の外人居留区にある学校に通う「僕」は、絵が好きな内気な少年。ある日、どうしても出したい色を出すために、同じクラスのジムの絵の具を盗んでしまう。そんな「僕」に対してアメリカ人の女教師は……。教訓主義の御伽噺を退け、「子供の心持ちを標準として、大人のすることにそぐわない子供の同情者」として有島が書いた児童文学。


一房の葡萄 [Hitofusa no budo] Reviews


  • Studio RAIN

    この作品は子供の頃に教科書かなんかで読んだ気もするのだが、先日読み直して改めて優れた作品だと感じた。

    本作の最大の価値は、善悪が未分化で倫理観の未熟な子供の心理を実に生き生きと再現しているところにある。

    主人公の子供は、友人の絵の具を盗んでしまうのだが、寛大な先生のおかげで許される。
    この話を完成された大人の倫理観で描けば、泥棒は悪い事なので、その報いを受けるのは当然だ、というような勧善懲悪の説教臭い教訓譚にしかならないだろうし、本作のような結末を見れば、泥棒を無条件で許すなんて甘い先生だ、という教条的な批判をするだろう。

    しかし、私自身も身に覚えがあるのだが、幼い子供には、あまり悪いことをしているという意識もなしに悪いことをしてしまい、後になって初めて自分のやったことの重大さに気づく、というようなことがあるのだ。
    本作にはそのような倫理観の未熟な子供の心理が実に巧みに描かれている。多くの人は子供の頃の心理なんて忘れていて、なんでそんなことをしたのか、説明すらできないのが普通だが、この作者は、善とか悪とか関係なく、なぜか絵の具が欲しくてたまらなくなって盗んでしまうという主人公の心の動きを、迫真のリアリティで再現している。

    そういう心理描写があるからこそ、泥棒をした子供が寛大な先生によって許される、という一見甘っちょろい結末が意味を持つのである。なぜ許したのかと言えば、その子は未熟な倫理観で悪事を犯してしまったが悪意はなく、結果を見てそれが悪いことだと学んで十分に反省し成長した、ということが先生にはわかったからだ。
    逆に、もし罪人のレッテルを貼って厳しく罰するという教条的な対応をすれば、その子はそれをきっかけにグレてしまい、常習的に悪事をする不良になってしまったかもしれない。

    読者にひとりでにそういったことを想像させ、この結末でよかったのだと感じさせるのは、作者の優れた心理描写のおかげであるし、そういった教条的な道徳観と違う可能性を感じさせることこそが、文芸というものの持つ力なのだ。